児童ポルノ・児童買春・児童福祉法・監護者わいせつ・不同意わいせつ・強制わいせつ・青少年条例・不正アクセス禁止法・わいせつ電磁的記録弁護人 奥村徹弁護士の見解(弁護士直通050-5861-8888 sodanokumurabengoshi@gmail.com)

性犯罪・福祉犯(監護者わいせつ罪・強制わいせつ罪・児童ポルノ・児童買春・青少年条例・児童福祉法)の被疑者(犯人側)の弁護を担当しています。専門家向けの情報を発信しています。

真正な領収書の日付・摘要欄をほしいままに変更してコピーする行為

 謝って済むのかということを考えましょう。
 偽造か変造かとかも。

http://www3.nhk.or.jp/news/2007/08/29/d20070829000145.html
収支報告書に添付された領収書のコピーのうち、盛岡市内の印刷会社が発行した10枚、あわせて377万5000円分で領収書の通し番号が共通していて、もともとは3枚の領収書を日付などを書き換えていたことがわかりました。このうち、通し番号が同じ「010987」という5枚の領収書は、いずれも金額が36万7500円で文字や印鑑なども同じですが、日付の「9月」の部分に線を書き足して「8月」にしたとみられるものや、ただし書きの部分が「支部会報」から「政党ポスター」の代金に変わっているものがありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070829-00000103-mai-pol
領収書の日付などを書き換え、通し番号が同じものを5枚提出したケースもあった。玉沢氏は「担当者に確認して事実を知った。県民に申し訳ない。報告書を訂正したい」と話している。
毎日新聞が情報公開請求で入手した政治資金収支報告書によると、領収書は盛岡市内の印刷業者が発行した。通し番号が同じ領収書が3種類10枚あり、合計で377万5000円になる。
 同一と見られる通し番号「010987」の領収書は5枚あった。金額はすべて36万7500円。日付は03年11月25日が2枚、8月25日、9月25日、10月25日が1枚ずつだった。ただし書きは4枚が「支部会報」。日付がだぶっている11月25日のうち1枚が「政党ポスター」と書かれていた。ほかの2種類もただし書きや金額、日付が改ざんされていた。

判例コンメンタール刑法2巻p192
私文書偽造罪における写真コピーの文書性について、最高裁判例はないが、下級審では、東京地判昭55・7・24判時982・3 等が積極判断を示しており,公文書偽造罪の場合と同様に解される。

外国為替及び外国貿易管理法違反、有印私文書偽造、同行使、業務上横領、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反
【事件番号】東京地方裁判所判決/昭和54年(特わ)第996号
【判決日付】昭和55年7月24日

 第二款 当裁判所の判断
第一項 前提となる事実の認識
 本件各偽造文書作成の手段方法、作成された文書の体裁内容、行使の方法等については、さきに罪となるべき事実として認定、判示したとおりである(第一章第二節第三款の二、同第三節第四款の一、二)。
 いわゆる写真コピーには、「写真機、複写機等を使用し、機械的方法により原本を複写した文書」一切が含まれるところ、その使用した機械的方法の如何により、作出された複写文書の性質(たとえば、色彩、寸法等の再現の程度)に若干の異同があるので、不必要な一般化を避け、本件で具体的に使用されたゼロックス複写機によるコピー(一部縮小コピーを含む。)に限定して、考察を進めることとする(以下、「写真コピー」という用語は、かように限定した意味で用いることとする。)。
 写真コピーは「写ではあるが、複写した者の意識が介在する余地のない、機械的に正確な複写版」(前示第二小法廷判決)であると言われる一方、「合成的方法による作為の介入がきわめて容易であるから、一般社会においても、写真コピーの信用性に実は大きな限界があることが次第に認識されて来るにちがいない」(前示第一小法廷決定中の団藤裁判官の意見)とも説かれている。両者は、一見矛盾するようであるが、実は、複写機による写真コピーの作成過程における二つの局面の特質をそれぞれ指摘しているに過ぎない。すなわち、前者は、被写対象となる書面(必ずしも原本と目し得るような文書に限らない。数葉の紙片を組み合わせて、一通の文書に見せかけたものであってもよい。)を複写機にかけた後の過程に着目しているのであって、その後コピーが完了するまでの間には「複写した者の意識が介在する余地」はあり得ず、被写対象となる書面と合同ないし相似(縮小コピーの場合)のコピーが作出されるのに対し、後者は、被写対象となる書面を設定するまでの間に、改ざんあるいは合成等の作為の介入が容易である点を指摘しているのである。そして、後者のような性質があるからこそ、複写機による文書の偽造が可能となるのであり、前者のような性質があるからこそ、偽造にかかる写真コピーを真正なものとして行使することが可能なのである。
 「機械的に正確な複写版」ということの意味についても、若干吟味しておく必要がある。写真コピーは機械的方法により作成されるのであるから、誤記等の人為的ミスが入り込まない正確性を有する一方、その正確性には、機械そのものの能力による限界があることは当然である。まず、黒以外の色彩はそのまま再現できないのはもとより、筆圧、印圧等による凸凹を再現することも不可能である。また、文字等の形状がそのまま再現されるとはいっても、顕微鏡的正確さは保たれない(複写してできたコピーを原本として再複写するという過程を数十回繰り返すと、点画がつぶれて判読不能になるのは、微細な誤差が累積したものと考えられる。)。最も重要なことは、原本の一部に紙を貼り(重ねて置くだけでもよい。)、他の文言を記載するなどして改ざんした場合、改ざんの痕跡が全く再現されず、当初から改ざん後の文言の記載があったかの如きコピーが得られることである。
 写真コピーの以上のような性質は、法令解釈の前提をなす基礎的事実として、認識しておく必要がある。
第二項 私文書偽造罪における「文書」の意義
 結論から先に言えば、所論引用の公文書偽造罪に関する最高裁判例の示す「文書」の意義に関する判断は、私文書偽造罪における「文書」の意義に関してもひとしく妥当し、これと別異の概念を定立すべき要を認めない。
 すなわち、公文書たると私文書たるとを問わず、およそ文書偽造罪は、文書に対する公共的信用を保護法益とし、文書が証明手段としてもつ社会的機能を保護し、社会生活の安定を図ろうとするものであるから、文書偽造罪の客体となる文書は、これを原本たる文書そのものに限る根拠はなく、たとえ原本の写であっても、原本と同一の意識内容を保有し、証明文書としてこれと同様の社会的機能と信用性を有するものと認められる限り、これに含まれるものと解するのが相当である。
 右説示は、公文書を文書としたほかは、所論引用の第二小法廷判決の判示するところと同文である(ちなみに、論決要旨・三八頁記載の検察官の主張も右に同じ。)。所論は、最高裁判例は、いずれも原本が公文書であることによって有する証明手段としての社会的機能を極めて重視していることを看過し、公文書に関する論理を安易に文書一般にすりかえることによって私文書偽造罪に当て嵌めようとしてはならない、と強調する(山岡・四四頁以下)。たしかに、公文書と私文書とでは、これに対する公共的信用の程度、証明手段としてもつ社会的機能に差異があり、その有形偽造又は無形偽造に対する刑法的評価を異にしていることは所論のとおりであるが、ここで問題にしているのは、偽造罪の客体となる文書はこれを原本たる文書そのものに限るか、原本の写であっても原本と同視できるようなものを含ませるべきかということであって、原本たる文書の性質如何によって左右されるべき事柄ではない。
 文書偽造罪の客体となる文書は、これを原本たる文書そのものに限る根拠はないとする理由について若干敷衍すると、文書偽造罪における文書とは、作成名義人の意思又は観念の伝達手段であり、作成名義人と直接に接することなくその意思又は観念を了知することができるために社会的有用性が認められ、これに対する公共的信用が刑法上の保護に値するものとされるのである。伝達手段である以上、作成名義人の意思又は観念が正確に表示されていることが必要であるとともに、それで十分であるはずである。従って、原本であっても、作成名義人の不明なものや、確定的内容を有しない草稿、草案の如きは、作成名義人の意思又は観念を正確に伝達するものでないから。刑法上の保護に値する文書性を否定されるのである。そして、従来、単なる写の文書性が否定されて来たのも、それが作成名義人の意思、観念の伝達手段としての原本との同一性を保証されず(手書き、タイプ印字等による原本の複製には、作為やミスによる誤写の可能性を否定し得ない。)、写作成者の認証行為なくしては、原本作成名義人の表示した意思、観念を直接了知し得ないと考えられたことによるものであった。すなわち、文書性を認めるための原本性の要求は原本であることが絶対的価値を有する芸術作品等の場合とは異り、単に認証のない写には原本との同一性の保証がないという理由に基づくものに過ぎないから、複写技術の進歩により、それ自体で原本との同一性が保証されるような種類の写が出現した場合に、その文書性を否定すべき根拠とするに由ないものである。この場合、原本との同一性の程度が問題となるが、作成名義人の表示した意思、観念の正確な伝達手段と認められることが必要にして十分な条件であるから、さきに判示した如く、「原本と同一の意識内容を保有し、証明文書としてこれと同様の社会的機能と信用性を有するもの」ということが、一応の基準となり得るであろう。
 従って、本件各写真コピーは、それが単に原本の写であるとの一事によって、私文書偽造罪における文書性を否定さるべきではないのであって、それ自体で原本との同一性が保証されるような写、換言すれば、原本と同一の意識内容を保有し、証明文書としてこれと同様の社会的機能と信用性を有するものと認められるか否か、が次に問われなければならないのである。
第三項 本件写真コピーの文書性 本件写真コピーの文書性を判断するに当っては、次の三点に留意する必要がある。すなわち、(一)写としての正確性を論ずるに際しては、まず、真正に作成されたコピーの場合を念頭に置き、偽造変造にかかるコピーについては二次的なものとして考察すること、(二)写としての正確性がどのような観点から要求されているかを明確に認識しておくこと、(三)私文書による取引等の当事者である一般通常人の認識を基礎とすべきこと、これである。
 右(一)は、真正な写真コピーに対する公共的信用の保護を問題とする以上当然なことであり、当初から偽造、変造にかかる写真コピーを前提としていたのでは、その正確性を判断することは論外である。
 そこで、真正な写真コピーを前提として考えれば、それは、「写ではあるが、複写した者の意識が介在する余地のない、機械的に正確な複写版であって、紙質等の点を除けば、その内容のみならず筆跡、形状にいたるまで、原本と全く同じく正確に再現されている」(前示第二小法廷判決)ものと言えよう。第一項に指摘したように、写真コピーの正確性には、機械そのものの能力による限界があることは事実である。
ここで、右(二)に指摘した正確性の要求される観点の認識が重要性を帯びて来る。たとえば、通貨偽造罪や有価証券偽造罪においては、写真コピー程度の再現力では、たかだか模造の問題を生じ得るに止まるであろうし、また、印影の真否を鑑定するような場合には、数次の再複写を経たような写真コピーは不適当である。しかし、ここでは、私文書偽造罪における文書性を論じているのであり、さきに指摘したとおり、そこで問題となるのは、作成名義人の表示する意思又は観念の伝達手段として、写作成者の認証行為をまつまでもなく、写それ自体として原本との同一性が保証されているとみられる程度の再現力を有するか否かということであり、色彩の再現力の有無や顕微鏡的誤差の存在は、これを捨象して妨げないものと言うべきである。むしろ、写それ自体が作成される経過が純粋に機械的であって人為的な誤写の可能性が排除されているという性質が認められる限り、筆跡、形状に至るまで原本と合同又は相似であるということまでは必ずしも必要ではないとすら言えるのである(原本が作成名義人自身の手書きによるものである場合には、その筆跡、形状が再現されていることは、そこに表示されている意思又は観念が紛れもなく原本作成名義人自身のものであることを推認し易いが、つねにそれが必要である訳ではない。)写真コピーの性質として、筆跡、形状に至るまで原本と全く同様に正確に再現されるということは、最小限の必要を充たしてなお余りある正確性が担保されていることを意味しているのである。
 所論が、写は、それが写であることが明らかである限り(現在の技術水準においては、写真コピーも、一見して原本の写であることが明らかである。)原本の存在を証明する手段としての意義は有するが、他方、その限度に止まるのであって、原本自体とは峻別されるべきであると強調するのは(山岡・四〇頁)、従来、文書偽造罪における文書性を論ずるに当り原本が重視されて来たのは、原本が原本なるが故に絶対的価値を有するからではなく、文書それ自体において作成名義人の意思又は観念を直接伝達保有するもの
としては原本以外にあり得なかったという歴史的事情に基づくものに過ぎないという視点を看過するものであって、機械文化の発展により、写であっても、作成名義人の表示する意思又は観念の直接的伝達手段として原本と同様の効用を有するものの出現に対応し切れない議論と言うほかない。
 そこで、痕跡を残さずして改ざん、合成が可能であるという写真コピーの特性をどのように評価すべきかの点について、次に考察する。
 写真コピーを利用した偽造、変造事犯は決して少なくはないが、世上利用されている厖大な写真コピーの使用量からすれば、その極く僅少な部分を占めるに過ぎないことは言うまでもない。世上、真正な写真コピーが日常生活中に多用されればされるほど、それが前示のように機械的に正確な複写版であって、原本の内容のみならず筆跡、形状に至るまで、原本と全く同じく正確に再現されるものであるとの観念が広く定着する。真正な写真コピーの属性についての観念は、不真正な写真コピーも真正なそれと外観上見分けがつかないという事情を通じて、真正、不真正を問わず写真コピー一般の属性として認識されるに至る
のである。前示第二小法廷判決が、前記引用の「写ではあるが……原本と全く同じく正確に再現されている」との表現に引続き、「という外観をもち、また、一般にそのようなものとして信頼されるような性質のもの、換言すれば、これを見る者をして、同一内容の原本の存在を承認させるだけではなく、印章、署名を含む原本の内容についてまで、原本そのものに接した場合と同様に認識させる特色をもち、その作成者の意識内容でなく、原本作成者の意識内容が直接伝達保有されている文書とみうるようなもの」と判示しているのは、その間の消息を明らかにしているものと言うべきである。そして、合成、改ざんによる偽造、変造が痕跡を残すことなく可能であるとの特性は、写真コピーを利用した文書偽造、変造事犯の処理に当る者や写真コピーの作成に常時携わる者にとってはよく知られた事実であるにせよ、写真コピーによる文書取引の当事者である一般通常人を基準とすれば(前記(三)参照)、必ずしも周知の事実とは言い難いのであるから、むしろ、その故に、一般通常人の写真コピーに寄せる公共的信用は一層強く保護されなければならないのである。恐らくは、団藤裁判官の指摘されるように、「一般社会においても、写真コピーの信用性に実は大きな限界があることが次第に認識されて来る」事態は早晩到来するものと思われるが、現時点においては、未だその域に達しているものとは認め難い。