児童ポルノ・児童買春・児童福祉法・監護者わいせつ・不同意わいせつ・強制わいせつ・青少年条例・不正アクセス禁止法・わいせつ電磁的記録弁護人 奥村徹弁護士の見解(弁護士直通050-5861-8888 sodanokumurabengoshi@gmail.com)

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木村光江「強制わいせつ罪における『性的意図』」判例時報 736号18頁

 わいせつの定義は非常に流動的なんだそうで、木村説の定義はありません。

拙稿1頁って17年前の論稿
強姦罪の理解の変化--性的自由に対する罪とすることの問題性
雑誌記事 木村 光江
掲載誌 法曹時報 55(9) 2003.9 p.2343~2360

木村光江・判評 736号18頁
6 わいせつな行為の意義
(1)大法廷判決の意図
 性的意図の位置づけは、平成29年判例により、犯罪の成立要件からわいせつ行為の判断基準の一要素へと移った(ただし、なお一定の独立の主観的要件は必要であるとする見解として、成瀬幸典・法学82巻6号113頁以下。客観的事実を超えた「人をその意思に反して自己又は第三者の性的衝動・性的欲求の対象として扱う意図」を強制わいせつ罪の主観的要件として認めるべきであるとする)。問題は、現代社会においてどのような行為が「わいせつな行為」、大法廷の文言でいえば「性的な意味のある行為」に当たるかである。「わいせつ」の定義としては、わいせつ物頒布等罪175条)に関する最判昭26・5・10(刑集5巻6号1026頁)の「性欲を刺激、興奮または満足させ、かつ、普通人の性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する行為」が、強制わいせつ罪においてもそのまま用いられてきたが、大法廷はこの定義に言及していない。
 学説上も、175条の定義を強制わいせつ罪に用いることへの批判は強く、性的自由に対する侵害行為がわいせつ行為であると理解する見解が多数である(山口厚『刑法各論〔第2版〕』(有斐閣、2010年)107頁、佐久間修『刑法各論〔第2版〕』(成文堂、2012年)115頁)。しかし、大法廷は、「性的自由を侵害する行為」という定義も用いていない。現在では、性的自己決定権の侵害といった保護法益の捉え方では、重大な被害を十分に捉えることができないとして、例えば、「性的不可侵性」(山中敬一・研修817号10頁)、被害者の性的尊厳・人格権の侵害(辰井聡子『町野古稀(上)』(信山社、2014年)425頁)といった理解も有力であり、わいせつ行為の定義自体は非常に流動的な状況にある(拙稿・前掲1頁以下参照)。大法廷が敢えて定義を示さなかったのは、現時点での一義的な定義が困難だという面もあるが、強制わいせつ罪の保護法益がかつてのように「性的自由に対する罪」だけでは説明できない状況にあるからである(本件のように児童に対するわいせつ行為も、自由に対する罪というよりは児童保護の観点が重要である)。
 一般的な定義を示す代わりに、大法廷は前述の通り、「わいせつな行為」を①性的な意味が明確な行為と②それが不明確な行為に分けて論じている。ただ、規範的構成要件要素の解釈に困難が伴うことは「わいせつ性」の判断に限らない。それにもかかわらず、敢えて大法廷がこのような区別を示して説明した理由に着目すべきであろう。おそらく「性的な意図」を独立の成立要件から外すに当たり、およそ行為者の主観を考慮しないとする趣旨ではないことを強調したかったものと思われる。「わいせつ」のような規範的判断において主観的事情を考盧しないことは非現実的だからである。そこで、「性的意図をおよそ要しない行為類型(①)」を取り出して、この部分については「性的意図」を成立要件としないことを明確にし、その上で、なお行為者の主観を考慮して判断すべき「限界事例」があることも見据えていると考えられる。本判決が「性的意図を独立の成立要件としない」ことを宣言した意義は大きいが、上述5(2)で述べたように、実質的な判断基準において昭和45年判例と決定的な違いがあるわけではない
(2)わいせつな行為の判断基準
 平成29年判例によれば、「わいせつな行為」の具体的な判断は、「行為そのものが持つ性的性質の有無及び程度を十分に踏まえた上で、事案によっては、当該行為が行われた際の具体的状況等の諸般の事情をも総合考慮し、社会通念に照らし、その行為に性的な意味があるといえるか否かや、その性的な意味合いの強さを個別事案に応じた具体的事実関係に基づいて」なされ、「そのような個別具体的な事情の一つとして、行為者の目的等の主観的事情を判断要素として考慮すべき場合があり得る」とされている。
 社会通念により判断する以上、当該被害者の個別具体的な被害感情そのものは基準となり得ず(それも判断材料の一つとはなり得ようが)、その時代の一般的な社会常識によらざるを得ない。より具体的には、当該行為の性質、被害者との関係、被害者の同意の有無、四囲の状況等(馬渡・前掲87頁)のほか、事案によっては医療上の必要性といった事情も考慮して判断されることになろう(たとえ衣服を脱がせる行為が診察上必要であっても、それを撮影することの必要性がなければわいせつ行為に当たる。広島高判平23・5・26、後掲表15参照)。
 身体的接触があれば「性的に意味のある行為」に当たることが多いであろうが、昭和45年判例で問題となった「裸にして写真を撮る行為」は、既に昭和62年の時点で(性的意図の有無にかかわらず)客観的には「わいせつな行為」に該当するとされていた。
(3)主観的事情の考慮
 では、行為者の性的意図を考慮しなければ判断し得ない場合とはどのような行為か。昭和45年以降の裁判例で、公刊物等で確認できるもののうち、行為自体のわいせつ性や性的意図が争点となった主なものについて、客観的なわいせつ性の程度と、性的意図の有無の観点から整理したのが本稿末尾の表である。
 客観的にわいせつ行為であることが明確な行為(表(ⅰ))については、昭和45年判例を除き全て有罪(●)となっているが、敢えて「性的意図は不要である」と明示したのが19、26(本件大法廷判決)である。これらを含む「I’」の分類は、被告人が性的意図以外の目的を主張した事案につき、性的意図との併存を認定したものである。
 それに対し、客観的にわいせつ行為性が認められないとされた例が(ⅲ)の6及び10であり、性的意図があることを認定しつつ強制わいせつ罪に当たらないとした。10は、嘔吐させることに性的満足を覚える者が、性的意図を持って女子高校生の口内に指を差し入れ嘔吐させる行為につき、客観的に「わいせつ行為」に当たらず暴行罪にとどまるとした。また、6は性的意図をもって女性の定期券を奪った行為について、窃取であってわいせつ行為ではないとした(東京高判昭62・7・9、豊田健・法学研究61巻2号267頁参照。不法領得の意思は認められる)。
 問題となりうるのが(ⅱ)の客観的に見てわいせつ性が必ずしも明確ではない類型であり、直接的な身体的接触がない場合や、近年は被害者自身に自画撮りさせて送信させる行為等が含まれる(非接触型のわいせつ行為につき、橋爪隆・研修860号3頁以下参照)。もっとも、成人女性・男性に対し意思に反して裸体を撮影する行為は、現在では性的意図を考慮することなく社会通念上わいせつ行為に当たるとされよう。それに対し、27判例(最決平30・9・10により維持された)は、ベビーシッターが乳幼児(男児)の陰茎を露出させて撮影した等の行為について、「日常でも目にするような全裸又は半裸の乳幼児の姿態を写真撮影するという態様」の行為のわいせつ性判断に当たり、被告人の性的意図の有無を考慮することは妥当であるとしている。
 さらに、最高裁が考慮すべきとする「行為者の主観的事情」は、「行為者自身の性欲を満たす性的意図に限られない」と指摘されている。性的屈辱感を感じさせる復讐目的や、第三者らの性欲を満たすための性産業に提供する目的も含むと考えられるからである(馬渡・前掲88頁)。ただ、このような目的は「一般人からみて性的意図があると考えられる事情」とほぼ同義であり、そのような意味での主観的事情であれば、わいせつ性の認識(故意)とほぼ重なることになろう。実質的にみれば、29年判例のいう「主観的事情」は「故意」とほぼ同義といえるのである。したがって、故意以外に主観的事情を考慮する必要がある事例は限定的となろう。
 7 まとめにかえて
 29年大法廷判決以降、強制わいせつ罪の議論の中心は、「性的意図の要否」から「わいせつ行為とは何か」に移った。わいせつ行為を、「性的性質を有する一定の重大な侵襲」とし、より具体的に検討する試みもなされている(佐藤・前掲法時60頁以下)。
 ただ、翻ってみると、昭和45年判例と平成29年大法廷判例との実質的な相違は、「性的意図の要否」の問題ではなかったように思われる。昭和40年刊行の注釈刑法では、単なる抱擁や、男が女の上に馬乗りになる行為、着衣の上から臀部を撫でる行為等はわいせつ行為ではないといった記述が見られる(同(4)293-294頁(所一彦執筆分))。もちろん状況にもよるが、現在ではこれらの行為については、わいせつ行為に当たるとされる場合も多いといえよう(なお、迷惑防止条例との関係については、嘉門優・季刊刑事弁護93号147頁以下参照)。昭和45年、平成29年の両判例の相違は、処罰範囲の違いであると考えるべきである。
 その処罰範囲の違いは、大法廷のいうように「社会の一般的な受け止め方」の変化によるものに他ならない。さらに、昭和45年判例が「通説にしたがって」性的意図を必要であるとしたのに対し、平成29年大法廷判例は「社会の一般的な受け止め方」にしたがって性的意図を成立要件とすることを否定した。両判例の違いには、学説と判例の関係の変化も現れているのである。