奥村はこの事件の弁護人じゃないんですよ。控訴趣意書ライターでした。
観念的競合説も、まだ、いけそうですね。
観念的競合の一罪性 論拠?、?、?の検討
本判決の論拠?は、「別個の意思の発現」であることを挙げて観念的競合を否定するものである。この点は、監禁罪との罪数関係における論拠?と一致する。
上述した観念的競合の一罪性の論拠に照らすと、本件では、強制わいせつ行為を行うにとどめ、その撮影(製造)を差し控えることは可能であるし、「一三歳未満の者に、わいせつな行為を行うな」とする規範に違反することにより、必然的に「児童ポルノを製造するな」とする規範に違反することになるわけではない。したがって、強制わいせつ行為に引き続いて児童ポルノを製造する行為をなした本件においては、別個の意思発動が認められることになる。第一審判決が、前掲最高裁平成二一年決定と同様に、「両行為が通常伴う関係にあるとはいえ」ないという点を理由付けに用いたのも、この文脈で理解可能である
これに対して、強制わいせつ罪と三項製造罪との関係を観念的競合とした事例群にあっては、例えば、前掲広島高裁平成二三年判決が典型的であるが、被告人の行為は「隠しカメラを用いて、露出した児童の胸部を撮影する」というものであり、製造を禁止する規範に違反することは、必然的に強制わいせつを禁止する規範に違反する。
このような場合には、意思発動は一回であると評価され、観念的競合が認められることになる。その意味では、観念的競合とした裁判例と併合罪とした裁判例は、理論的に両立しうると思われる。
論拠?は、「時間的継続」を伴う行為と、「一時点一場所」での行為とは社会的見解上別個の行為であるとする最大判昭和四九年五月二九日にならったものである(いわゆる「点と線」)。
もっとも、その論理の前提として、本判決が「複製行為も犯罪を構成し得るため、時間的に広がりを持って行われることが想定される」点に言及した点には疑問がある。本件児童ポルノ製造にかかる罪となるべき事実としては、公衆便所での撮影行為のみが掲げられており、その後の複製行為をも含めて起訴されているわけではない(この点が、本判決の引用する最決平成一八年二月二〇日刑集六〇巻二号二一六頁とは異なる)。論拠?が、抽象的な行為の性質としての「点と線」を問題とするものであるとすると、およそ強制わいせつ罪(「点」)と三項製造罪(「線」)とは社会的評価として一体のものとはならないことになろう。しかし、上述したように、両罪が観念的競合となりうる場合はなお考えられる。論拠?は、本判決の罪数判断の理由付けとしては妥当性を欠き、不要であったといえる。論拠?については、それが補強する論拠?への疑問のほか、その内容にも疑問がある。たしかに、罪数論の訴訟法上の意義は、公訴事実の同一性の基準としての面にあるから、一事不再理効の範囲から逆算して罪数を検討する裁判官の思考は理解可能ではある。しかし、実体法上の理論としては、罪数判断の結果として一罪の範囲、ひいては一事不再理効の働く範囲が決まるのであって、その逆ではないように思われる。(なお、罪数論と一事不再理効とを対応させることに否定的な見解として、古田・前掲八〇頁、只木・前掲二五六頁」)
以上のように、本判決の罪数判断のうち、論拠?はその趣旨が不分明であり、論拠?、?の妥当性には疑問が残るが、論拠?、?は理論的にも基礎付けられるものであり、その結論も支持することができると考える