児童ポルノ・児童買春・児童福祉法・監護者性交・不同意性交・不同意わいせつ・青少年条例・不正アクセス禁止法・わいせつ電磁的記録・性的姿態撮影罪弁護人 奥村徹弁護士の見解(弁護士直通050-5861-8888 sodanokumurabengoshi@gmail.com)

性犯罪・福祉犯(監護者わいせつ罪・強制わいせつ罪・児童ポルノ・児童買春・青少年条例・児童福祉法)の被疑者(犯人側)の弁護を担当しています。専門家向けの情報を発信しています。

「水着の中に手」は摘発 無法「着エロ」にみる児童ポルノの“境界線”

 立法者からすれば想定外の事案が発生してるんですよ。
 判例を集積すれば境界線がわかってくるでしょうが、法律が変わっちゃうので、いつまでも追いつかないですね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090301-00000550-san-soci
■“失敗”後に威信をかけた警視庁
 警視庁が「着エロ」を児童ポルノと判断して、捜査のメスを入れるのは初めてではない。
 平成19年10月、女子高校生(17)をモデルにして児童ポルノDVDを製造したとして、同法違反の疑いで出版社のチーフプロデューサーら4人を逮捕。DVDには、水着の一部が外れたり、水着の上から局部の形がはっきりと分かる場面などが収録されていた。
 しかし、東京地検が起訴した罪状は、児童買春・ポルノ禁止法違反ではなく児童福祉法違反だった。
 東京地検は「撮影対象になったのは17歳であり、他の児童ポルノに比べ悪質性が高いとはいえない」と判断。DVD撮影が、児童福祉法が禁じる「児童の心身に有害な影響を与える行為をさせる目的で、支配下に置く行為」に当たるとして、同法違反罪に切り替えた形だ。
 警視庁幹部は渋い顔で振り返る。
 「児童ポルノの解釈の難しさを肌身で知らされた。事件摘発でその境界を明確にするのが狙いだっただけに、児童福祉法での起訴では行き過ぎた業界への警鐘にならず、悔いが残った」
 捜査員らは不退転の決意で次のターゲットを探した。「2度目の失敗は、今後の児童ポルノ捜査に重大な影響を及ぼす」(警視庁幹部)ためだ。
 そこで浮上したのが「ピンキーネット」の作品だった。

 ↓の問題は、悩ましくて、医学書の児童の裸体写真と同じ構図で撮影したとか販売したらどうなるのかですよね。
ただ、児童ポルノ該当性というのは、客体の要件(構成要件)ですから、撮影目的とかで左右されるはずがないから、誰がどんな目的で撮ろうと、医学書の一ページでも、児童ポルノでないとだめです。正当性があるなら、違法性レベルの判断になります。

ただ園田教授は、児童ポルノと定義できるかどうかは作品の文脈や扱われる状況によって変わる、と指摘する。

 「極端な例だが、例えば水着の少女の写真があるとする。写真立てに入った自分の娘の写真ならまったく問題ない。だが、ポルノ雑誌に載って扇情的な見出しがつけば、それは児童ポルノといえる。作中や媒体での扱われ方が問題となってくる」

 その意味では、京都地裁平成12年 7月17日は、同じ写真でも装丁や構成によって児童ポルノ性が左右されるような書きっぷりですが、失当だと思います。

京都地裁平成12年 7月17日
もっとも、三号児童ポルノの範囲が拡大すると、表現の自由や学問の自由等の憲法上の権利を制約することになりかねないという懸念もあろう。児童ポルノ法三条も、この法律の適用に当たっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならないと定めているところである。
 そこで、衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態(以下「児童の裸体等」という。)を描写した写真または映像に児童ポルノ法二条二項にいう「性器等」、すなわち、性器、肛門、乳首が描写されているか否か、児童の裸体等の描写が当該写真またはビデオテープ等の全体に占める割合(時間や枚数)等の客観的要素に加え、児童の裸体等の描写叙述方法(具体的には、①性器等の描写について、これらを大きく描写したり、長時間描写しているか、②着衣の一部をめくって性器等を描写するなどして性器等を強調していないか、③児童のとっているポーズや動作等に扇情的な要素がないか、④児童の発育過程を記録するために海水浴や水浴びの様子などを写真やホームビデオに収録する場合のように、児童の裸体等を撮影または録画する必然性ないし合理性があるか等)をも検討し、性欲を興奮させ又は刺激するものであるかどうかを一般通常人を基準として判断すべきである。そして、当該写真又はビデオテープ等全体から見て、ストーリー性や学術性、芸術性などを有するか、そのストーリー展開上や学術的、芸術的表現上などから児童の裸体等を描写する必要性や合理性が認められるかなどを考慮して、性的刺激が相当程度緩和されている場合には、性欲を興奮させ又は刺激するものと認められないことがあるというべきである。