児童ポルノ・児童買春・児童福祉法・監護者わいせつ・不同意わいせつ・強制わいせつ・青少年条例・不正アクセス禁止法・わいせつ電磁的記録弁護人 奥村徹弁護士の見解(弁護士直通050-5861-8888 sodanokumurabengoshi@gmail.com)

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前田雅英「周旋と未成年であることの認識」(警察学論集65巻1号)

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20060714#1152874577
でも紹介しましたが
 東京高裁H15.10.7
 名古屋高裁金沢支部h17.3.10
も認識必要説です。

1 被周旋者の「児童買春」の認識
警察の保安課の現場の視点からは、例えば児童買春周旋罪を立件するため、被周旋者において「相手方が18歳未満の児童であること」の認識を有することを挙証するのは困難が伴うということになろう。遊客の供述が得られない場合に、周旋者が児童の年齢を偽っていたという事実があれば、被周旋者にそれと異なる認識の存在を認定することは難しい。しかしそうなると、児童買春を禁圧するために「周旋行為」を重く処罰することにした立法趣旨の達成が、著しく困難となる。ただ、理論的には、「罪刑法定主義」「責任主義」等を挙げて、「残念ながら処罰を限定せざるを得ない」ということになるように見える。ところが、静岡家裁平成16年5月6日(判時1883-153) は、児童買春に関し、被周旋者に被害児童が18歳未満の者である旨の認識がない場合について、児童買春周旋罪の成立を認めたのである。
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これに対し、基本判例2の東京高判平成15年5月19日(判時1883-153) は、児童買春周旋罪が成立するためには、周旋行為がなされた時点で、被周旋者において被害児童が18歳未満の者であることを認識している必要があるとしたのである。両者の比較を通して、「周旋」解釈の限界を検討したい。
3 基本判例2の評価
東京高裁は、児童買春周旋罪を、?児童買春をしようとする者と児童の双方からの依頼又は承諾に基づき、両者の聞に立って児童買春が行われるように仲介する行為とし、?このような行為は児童買春を助長し、拡大するものであるから、懲役刑と罰金刑を併科して厳しく処罰すると解する。
そこで、?同罪は、被周旋者において児童買春をするとの認識を有していること、すなわち、当該児童が18歳未満の者であるとの認識をも有していることを前提にしていると解されるとするのである。ただ、同条の解釈として18歳未満の者であるとの認識」が必須であることが導かれるというわけではない。
むしろ、静岡家裁平成16年5月6日のいうように、児童買春等処罰法は、児童に対する性的搾取及び性的虐待から児童の権利を擁護することを目的としており、風俗環境・性的秩序を対象とする売春防止法等とはかなり異なった側面を有する。その意味で、児童買春を周旋する行為は、被周旋者において児童買春を行う認識があるか否かを問わず、「児童買春の周旋行為自体」により、児童に対する性的搾取及び性的虐待のおそれを生ぜしめるものであり、児童買春罪から独立させて同罪よりも重く処罰していると解することも十分可能である。児童買春罪に該当する行為を助長拡大する行為のみを念頭に置いているわけではないともいえよう。やはり問題は、児童買春等処罰法の予定している「法益」がどの程度害されるのかという実質的議論なのである。
その点、東京高裁は、?被周旋者に児童買春をするとの認識がある場合と、その認識を有していない場合とでは、児童買春の規制という観点からは悪質性に差異があるとする。たしかに、被周旋者の児童買春の認識の有無で、差が存在することは否定できない。また、児童と知っている客に周旋する行為を禁圧すれば、ある程度「児童買春」を抑止しうるとはいえよう。 しかし、客が児童と思わなくとも「児童が売春行為を行うことを、周旋者がそれと認識しつつ仲介する行為」は、児童の権利擁護の視点からは、決して軽視し得ない。
この解釈においては、当然、「客観的には児童の権利が著しく侵害されているのに、周旋者が児童の年齢を18歳以上であると偽ることにより、児童買春周旋罪の適用を免れることになって妥当ではない」という刑事政策的視点も考慮される。そして、周旋者は、児童買春周旋罪に該当しなくても、児童淫行罪や売春周旋罪により処罰をすることが可能であるとする。しかし、周旋が常に「淫行をさせる」には該当するわけではなく、売春防止法6条違反では、刑が軽い。児童の保護をより実質化しようとしている国民児童の権利を守るために、児童買春周旋罪の成立を認めるべきであり、条文の解釈として、それは十分可能なのである。