児童ポルノ・児童買春・児童福祉法・監護者わいせつ・不同意わいせつ・強制わいせつ・青少年条例・不正アクセス禁止法・わいせつ電磁的記録弁護人 奥村徹弁護士の見解(弁護士直通050-5861-8888 sodanokumurabengoshi@gmail.com)

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準強姦無罪判決(神戸地裁h25.11.21)

判例番号】 L06850641
       準強姦未遂被告事件
【事件番号】 神戸地方裁判所判決/平成24年(わ)第263号
【判決日付】 平成25年11月21日
【掲載誌】  LLI/DB 判例秘書登載

       主   文

 被告人は無罪。

       理   由

 1 本件の争点と判断の骨子
  (1) 本件公訴事実の要旨は,被告人は,A(当時87歳。以下「被害者」という。)が重度の認知症により心神喪失の状態にあることに乗じて同女を姦淫しようと企て,平成24年3月31日午前3時55分頃,兵庫県甲市乙a丁目b番c号B病院(以下「本件病院」という)東館d号室において,同女に対し,その衣服をはぎ取った上,その陰部に陰茎を押し当てるなどして姦淫しようとしたものの,看護師に発見されたため,その目的を遂げなかったというものである。
  (2) 本件では,被告人が,公訴事実のとおり,心神喪失状態の被害者に対し,その衣服を脱がせ,その陰部に陰茎を押し当てるなどしたこと(以下「事件」というときにはこの出来事をさす。)については争いがない。争点は,事件当時の被告人の責任能力の有無及び程度である。
    被告人が事件当時の記憶がないなどと述べたこと,事件の約7時間前に被告人が睡眠導入剤を服用していたこと,睡眠導入剤の副作用が事件に影響した可能性を指摘する医師の意見が提出されたことなどから,当裁判所において鑑定を実施したところ,鑑定人は,本件は睡眠導入剤の副作用として生じた一過性前向性健忘,奇異反応のもとで行われた可能性が高いとの鑑定意見を述べた。弁護人は,この鑑定結果を援用し,事件当時,被告人は心神喪失状態にあったと主張した。これに対し,検察官は,鑑定意見の信用性には疑問があるとした上で,睡眠導入剤の副作用は被告人の行動に影響を与えておらず,仮に影響があったとしてもその程度は強くないのであって,被告人の事理弁識能力と行動制御能力には欠落も減退もなかったと主張した。
    当裁判所は,以下のとおりの検討の結果,事件当時の被告人は睡眠導入剤の副作用による精神障害があったとする鑑定意見は尊重に値すると判断するとともに,被告人の責任能力については心神喪失の状態に至っていた可能性が合理的に排斥できないと判断した。
 2 前提事実(証拠上容易に認定でき,かつ当事者間に争いのない事実)
  (1) 事件前後の事実経過
   ア 被告人(事件当時70歳)は,平成24年3月18日,心不全及び肺炎の治療のため本件病院に入院し,当初は酸素投与や24時間の持続点滴等の処置を受けていたが,同月29日には外出できる程度にまで回復していた。なお,被告人は,平成22年10月頃から睡眠導入剤を処方されて日常的に服用していたところ,本件病院に入院後も,平成24年3月21日以降,1日1回,午後9時少し前頃に看護師からX錠10mg1錠を受け取り,服用していた。
   イ 一方,被害者(事件当時87歳)は,平成24年3月28日,肺炎等の治療のため本件病院に入院したが,最重度の認知症を患っており(長谷川式認知症検査0点),刺激への反応はほとんどなく,言葉を発することはもちろん寝返りを打つこともできなかった。
   ウ 被告人及び被害者はいずれも本件病院の東館e階に入院しており,被告人が入院していた病室と,被害者が入院していた病室(d号室)の距離は11m程度であった。また,d号室は,4人部屋で,夜間,各ベッドはカーテンで仕切られていた。
   エ 平成24年3月30日,被告人は,いつもどおり午後9時前頃にX錠10mg1錠を服用した。翌31日(以下,同日の出来事について月日の記載を省略する。)午前3時頃,看護師が被告人の病室を見回りに訪れたときには,被告人は眠っており,特に変わった様子はなかった。
   オ 午前3時55分頃,d号室に見回りに来た看護師が,事件を目撃した。その際の被告人は,全裸で,ベッド上の被害者に馬乗りになって覆い被さり,勃起した陰茎を被害者の陰部付近にあてがっていた。被害者は,病衣やおむつが脱がされ,胸や陰部が露わになっていた(被害者の尿道には管が通された状態であった。)。看護師が驚いて大声で叫び,「何しているの。」などと被告人に声を掛けると,被告人は,被害者から離れ,陰茎を両手で隠すような仕草をし,「この女が助けて,ほどいてほしいと言うからほどいているところや。」などと言い,「なんであなたは裸なの。」と問われると,「この人が脱がしたんや。」などと答え,その後も看護師の追及に対して同様の発言を繰り返した。その後,被告人は,看護師に自室に戻るように促されてベッドから降り,服を着て自室に戻った。
   カ 午前5時頃,看護師が被告人の様子を確認したところ,被告人は自室のベッドでいびきをかいて眠っていた。午前5時10分頃,被告人の主治医であるC医師が被告人を別室に呼んで事件について尋ねたところ,被告人は,被害者の病室に入った記憶はない,夢の中で女の人に帯をほどくように言われた,夢の中でそういうことをしたのかもしれないなどと話していた。午前5時30分頃,本件病院に到着した警察官から事件について問われると,被告人は,「夢の中で,お婆さんが縛られていたので,紐をほどいたろうとしていた。」「夢を見ていただけで何も覚えていない。」などと話し,陰茎を挿入したのかについて問われると,「挿入,そこまではしていません。チンチンくっつけたんかなぁ。」などと曖昧な返事を繰り返した。なお,C医師は,警察官に経過報告する際,被告人がXを服用しており,その副作用の影響で犯行に及んだ可能性も否定できない旨説明していた。
  (2) 被告人の公判供述
    被告人の公判供述の内容は概ね次のとおりである。
    事件当日のことはほとんど記憶がない。思い出せるのは,看護師から部屋に戻って寝るように注意されて自分のベッドの方に行ったことと,部屋で眠っていると看護師か警察官(たぶん警察官だと思う。)に起こされ,「何事かいな。」と思ったこと,どこかの部屋に連れて行かれ,話を聞かれたことくらいである。それ以上のことは思い出せない。警察署で自分がしたことについて聞かされたときには,「間違いやったらいいのになあ。」と感じた。
    被害者については会ったことも見たこともなかった。同じフロアに女性の患者が入院していることは知っていたが,どの部屋に女性がいるかは気にしていなかった。
    性欲については,平成7年頃に妻を亡くしてからは女性と性交渉を持ちたいという気持ちを抱いたことはなかった。事件当時は陰茎が勃起しない状況であり,自分は性交渉ができないと思っていた。
  (3) Xに関する事実及び知見
   ア 概要
     被告人が事件前に服用したXは,Yを主成分とする睡眠導入剤である。Yは,ヒトの小脳,大脳皮質第4層等に多く存在する受容体に選択的に作用し,即効性の催眠鎮静作用を有することが臨床実験等の結果により知られている。同成分の薬剤は既に世界各国で広く承認されており,日本でも平成12年に承認されてXの名称で販売が開始され,現在も臨床上広く使用されている。ただし,ヒトの意識というもの自体が神経科学的に十分解明されていないこともあり,Yがもたらす鎮静,入眠,無意識などの効果がどのような機序で起こるのかは具体的には解明されていない。
   イ 副作用
     製薬会社作成の添付文書及び医薬品インタビューフォームには,Xの重大な副作用として,①依存性,離脱症状,②精神症状,意識障害,③一過性前向性健忘,もうろう状態,④呼吸抑制,⑤肝機能障害,黄疸の5つが記載されている。このうち,②については,「せん妄(頻度不明),錯乱(0.1%から5%未満),夢遊症状(頻度不明),幻覚,興奮,脱抑制(各0.1%未満),意識レベルの低下(頻度不明)等の精神症状及び意識障害があらわれることがあるので,患者の状態を十分観察し,異常が認められた場合には投与を中止すること。」と記載され,③については,「一過性前向性健忘(服薬後入眠までの出来事を覚えていない,途中覚醒時の出来事を覚えていない)(0.1%から5%未満),もうろう状態(頻度不明)があらわれることがあるので,服薬後は直ぐ就寝させ,睡眠中に起こさないように注意すること。なお,十分に覚醒しないまま,車の運転,食事等を行い,その出来事を記憶していないとの報告がある。異常が認められた場合には投与を中止すること。」と記載されている。また,慎重投与が必要な患者として,衰弱患者(薬物の作用が強くあらわれ,副作用が発現しやすい。),高齢者(副作用が発現しやすい。),脳に器質的障害のある患者(作用が強くあらわれるおそれがある。)が挙げられている。
     なお,アメリカ食品医薬品局(FDA)は,2007年,非常にまれではあるが,Xと同種の薬剤の副作用により,睡眠中に起き上がって車を運転する,夜中に過食する,電話をかける,インターネットで買い物をするなど異常行動を引き起こす(いずれも覚醒後全く記憶がない)危険性があると報告した。これを受けて,Xの添付文書には,その冒頭に,「【警告】本剤の服用後に,もうろう状態,睡眠随伴症状〔夢遊症状等〕があらわれることがある。また,入眠までの,あるいは中途覚醒時の出来事を記憶していないことがあるので注意すること。」との記載が加えられた。
   ウ 薬物動態
     前記添付文書やインタビューフォームには薬物動態についての実験結果が記載されている。これによれば,健康成人6例にX10mgを空腹時に単回経口投与したところ,投与後0.8(±0.3)時間に最高血漿中濃度に達し,消失半減期(薬の成分の血中濃度が半減するまでの時間)は2.30(±1.48)時間であった。他方,高齢患者に関する臨床試験の結果をみると,X5mgを投与した場合,高齢患者7例(67歳~80歳,平均75歳)と健康成人6例とを比較すると,高齢患者のグループは健康成人グループに比べ,最高血漿中濃度は2.1倍,最高血漿中濃度到達時間は1.8倍,消失半減期は2.2倍となった。
 3 精神障害の有無(Xの副作用が事件に影響を与えた可能性)
  (1) 鑑定意見の内容とその信用性
    鑑定人のD医師は,事件当時の被告人の行動はXの副作用として生じた一過性前向性健忘,奇異反応のもとで行われた可能性が高いとの意見を述べた(なお,鑑定人は,ここでいう奇異反応とは,Xの副作用として添付文書等に指摘のある夢遊症状,脱抑制等の精神症状を総称的に呼ぶものと説明している。以下においても同様の意味で用いる。)。
    鑑定人は,睡眠を専門とする精神科医であり,その学識,経験等に照らし,睡眠時の精神障害の有無が争点になった本件の鑑定に十分な資質を備えていることはもとより,診察方法や前提資料の検討も相当なものである。
    また,その診断過程は,大要以下のようなものであり,重大な破綻や明らかな不合理性は見当たらない。すなわち,鑑定人は,①事件の内容自体がいささか特異であること,②被告人がXを服用してから約7時間後に事件が起きているが,被告人が高齢であったことに加えて,当時被告人は心不全からの回復過程にあって必ずしも健康状態が良好ではなかった上,脳に器質的障害(両側前頭葉,両側側頭葉優位の脳萎縮)があったことから,事件当時の被告人のXの血中濃度は薬物動態に関する教科書的な記載よりも高かったと考えるのが自然であり,具体的な血中濃度を推定することは難しいものの,少なくともXの薬理作用は事件時まで残っていたと考えるのが合理的であること,③被告人はXを長期間常用していたのに,本件までは重大な副作用は出ていなかったと考えられる上,鑑定中にXを服用させて行動観察を行ったときにも異常行動は確認されなかったのであるが,それを前提にしても,身体条件等により事件当日にだけ重大な副作用が発現した可能性はなお否定できないこと,④被告人が当時の記憶がないと述べている点は,鑑定入院中の継続的な観察から偽りを述べているとは考えられず,一過性前向性健忘が生じたものと考えられ,事件の際の被告人の行動も副作用の報告事例や鑑定人自身が臨床上経験した副作用事例と類似性があること,⑤被告人が看護師から声を掛けられたときに被害者から頼まれて服を脱がせたなどと発言した点については,被告人に現に生じていた妄想様の体験を現すものであるのか,それともつじつまを合わせるための発言であったのか,いずれとも断定することはできないが,一般論としては,副作用の影響により,現実を妄想様に曲解することは起こり得ることから当時の被告人にそのような症状が生じていた可能性も否定はできないこと(もっとも,その可能性を前提にしても,被害者の服を脱がせた後に被告人が被害者を姦淫しようとした理由については被告人自身もまったく覚えていないことから,結局不明というほかないとする。),⑥Xの副作用としての奇異反応が,今回の被告人に性的逸脱として現れた理由については説明できないが,他の睡眠導入剤では性犯罪の報告事例もあり,少なくともXの副作用が性的逸脱として現れることはないとはいえないこと,⑦鑑定中に実施した諸検査の結果,レム睡眠時障害の可能性は否定されたことなどの事情を総合的に勘案の上,本件はXの副作用による奇異反応のもとで行われた可能性が高いと結論付けている。前記のとおり,意識や睡眠導入剤の作用機序,Xの副作用の発生原因や症状の実態等については解明されていない点が多いが,鑑定人はそうしたことも踏まえ,睡眠の専門医の知見に基づいて検討しているのであり,その判断過程には十分な合理性があると考えられる。
    付言すると,前記①及び④については,これまで犯罪歴が一切なく,事件までの入院期間中も特段の問題行動が見られなかった被告人が,突如として,病院内で,見ず知らずの高齢の最重度認知症患者のベッドに忍び込み,おむつを装着し尿道に管を通した状態の被害者に性的な関心を抱いて姦淫しようとしたこと自体がかなり奇異であることは明らかである上,看護師に見付かり注意を受けた際やC医師から事情を問われた際の被告人の発言内容も弁解としてはかなり不可解であって,さらに,事件後,自室に戻って間もなく,いびきをかいて眠っていたという被告人の状況,現在,事件のことを被告人がほとんど覚えていないこと(被告人の供述態度や事件後の供述経過に照らしても,事件のことを覚えていないとする被告人の供述が虚偽であるとは考えがたい。)などの本件固有の事情を全体的・総合的に考察すれば,事件当時被告人に何らかの精神障害または精神病性症状が出現していた可能性が高いと考えるのが合理的というべきであり,鑑定意見はその点でも十分説得的である。
    なお,麻酔科医として豊富な経験を有するE医師も,同様に,被告人による事件時の行為と記憶の欠落にはXの副作用が関わっている可能性が高いと証言しており,この点も鑑定意見の信用性を補強するものといえる。
  (2) Xの副作用の影響を否定的に捉える医師の見解について
    他方で,心療内科医のF医師及び本件病院における被告人の主治医であったC医師(内科医)は,いずれもXの副作用による影響について否定的な見解を示しているが,次に述べるとおりいずれも信用性に乏しい。まず,両医師とも,理由の一つとして,Xの一般的な薬物動態に照らすと,事件当時,Xの作用はほとんど消失していたと考えられることを挙げている。しかし,前記のXの薬物動態からすると,高齢者の場合,服用後8時間を経過しても,健康成人の最高血漿中濃度と同程度の血漿中濃度を保っている可能性は十分にあり,両医師とも高齢者の薬物動態に関して不正確な理解を前提にしているといわざるを得ない(F医師は,反対尋問中に,自ら誤解があったことを事実上認めている。)。むしろ,薬理作用が事件時刻頃に残存していたとする鑑定意見の方が薬物動態に関する実験結果と整合的であり,明らかに説得力において優る。
    また,F医師は,別の理由として,Xの副作用による異常行動は,睡眠時遊行症とほぼ同様のものと考えられるところ,一般に睡眠時遊行症の患者は他人から声を掛けられても比較的反応が鈍く,はっきり目覚めさせるにはかなり困難を伴うものとされているが,被告人は,事件直後,看護師に注意された際,すぐさま陰部を隠し,看護師と会話をし,看護師の注意に従って服を着て自室に戻るなどしており,これは睡眠時遊行症の一般的な症状と整合しないことを挙げる。しかし,F医師が指摘する睡眠時遊行症は,睡眠随伴症状(その定義は,睡眠に関連して起きる望ましくない異常現象)の一形態であり,睡眠中に起き上がり,歩き回るエピソードが反復することを主症状とするものであるところ(F医師作成の意見書),Xの副作用としての奇異反応が,睡眠時遊行症の症状や特徴と同一であることが確立した知見であると認めるべき証拠はない(前記のとおり,Xの添付文書等に記載された副作用は多様な精神症状を含んでいる一方,「睡眠時遊行症」との記載はない。)。したがって,睡眠時遊行症の特徴との不一致を理由に,Xの副作用の影響を否定するF医師の見解には疑問がある。
    一方,C医師は,事件直後に被告人と話をした際,白々しく嘘をついているような印象を受けたことや,Xの副作用として異常行動が生じるのは非常にまれであることも理由に挙げる。しかし,前者は主観的な印象を述べるにとどまり,後者についても,副作用が現れることの希少性を理由に,副作用発生の可能性を否定するものであり,その論理に合理性がないことは明らかである。
    このように,F医師およびC医師の見解は,それぞれが理由とする内容に看過できない疑問があるため採用できず,これらの見解を踏まえても鑑定意見の信用性が損なわれることはない。
  (3) 鑑定意見に対する検察官の主張について
    検察官は,鑑定意見に対し,被告人は,事件の際,自室から約11m離れた被害者の病室まで移動した上,ベッドを仕切るカーテンを開けてベッドに上がり込み,被害者の衣服を脱がせるとともに自らも着衣を脱いで姦淫行為に及ぼうとし,事件を目撃した看護師に対しては言い訳ととれる発言をしたり,陰部を隠したりしていることを指摘し,このような状況に応じた合理的な行動をとっていることは,Xの副作用による奇異反応とは整合しないにもかかわらず,鑑定意見はこの点について十分な検討を行っていないとして,その信用性に疑問があると主張する。たしかに,鑑定人作成の「鑑定要旨」には,事件時の被告人の行動の分析は示されていないが,鑑定人の公判廷での供述によれば,鑑定人が被告人の言動を把握・検討した上で鑑定意見を述べていることは明らかである。その上,鑑定人は,Xの副作用による奇異反応においては,一見するとある程度合理的な行動をとっていることが多いという医学的知見を前提に,被告人の事件時の行動がXの副作用による奇異反応として相容れないものではない旨の説明をしているのであって,被告人の事件時の行動を分析していないとの検察官の批判は当たらない(なお,前記の医学的知見については,E医師も,自身の臨床経験を踏まえつつ,Xの副作用の影響下においては,意識状態は低下しているものの,周囲の状況をある程度把握しているとみられ,合目的的な運動が一部保たれていることが多いなどと,鑑定人の同旨の見解を述べている上,前記のFDAの報告にも整合する。他方で,検察官からはこれを排斥するに足りる論拠は示されていないというべきである。)。
    また,検察官は,鑑定意見のうち,事件当時,被告人がXの強い影響を受けていたとする点については根拠が薄弱であると主張する。この点については,Xの副作用に関しては未解明な点が多く,本件においてもXの副作用が生じていたか否かを明快な根拠をもって説明するのが困難であることは鑑定人自身も認めているところである。しかし,睡眠の専門医である鑑定人が,多角的な観点から検討して,Xの影響を肯定しうる事情が摘示できる一方,これを否定すべき事情を見いだせないとの判断に至ったことは尊重すべきものである。
  (4) 小括
    以上のとおり,事件当時の被告人の行動はXの副作用による奇異反応,一過性前向性健忘のもとで行われたと考えられるとする鑑定意見は合理的で尊重に値するものである。
 4 責任能力についての判断
  (1) そこで次に,被告人には,事件当時,精神障害として,Xの副作用による奇異反応が生じていたことを前提に,被告人の責任能力の存否について検討する。
    まず,奇異反応が事件当時の被告人の行動に及ぼした影響の有無や程度についてみると,鑑定人は,前記のとおり,Xの副作用として生じた奇異反応下で被告人に妄想様の症状が生じ,被告人が被害者から衣服をほどいて欲しいと頼まれたと誤認していた可能性も否定できないとする一方,被告人が被害者を姦淫しようとした理由については不明であり,結局のところ,被告人の事件当時の意識状態,心理状態については確たる推測はできない旨述べている。また,E医師も,前向性健忘が生じる患者は多少とも失見当識状態にあったと考えられることを指摘しつつも,夢遊症状(鑑定人が述べる「奇異反応」とほぼ同内容の症状をいうものと解される。)が生じている者の意識状態についてはメカニズムも含めて分かっていない旨証言している。したがって,これら専門家の知見を踏まえても,事件直前の被告人の意識状態,心理状態はやはり不明といわざるを得ない。
    ただ,被害者の服を脱がせた点について妄想様の症状(被害者から衣服をほどいて欲しいと頼まれたとの誤認)が生じていた可能性が否定されないとする鑑定意見は,鑑定人の依拠する医学的知見や前提資料の検討に問題がないことから,基本的に尊重できるというべきである。そして,これを前提とすれば,その際の被告人の意識状態としては,部分的には現実を正しく認識してそれに対応する行動を取りながらも(すなわち,現に目の前に女性がいることやその衣服を自分が脱がせたことを認識していながら),別の部分では妄想様の誤認,曲解があった(すなわち,現実には被害者が服を脱がすよう頼んだ事実はないのに,被告人はそれがあったと誤認していた。)との状況が生じていた可能性がある(鑑定人やE医師が奇異反応下でも部分的にはまとまりのある行動を取る場合があると述べていることも,前記のような意識状態があり得ることを示唆するものといえる。)。そうであれば,被害者の服を脱がせる行為と連続的になされた姦淫行為についても,妄想様の症状が影響し,姦淫に至る前提としての事実の認識の重要部分に誤認,曲解が生じていた可能性は否定できない。すなわち,当時の被告人の内的体験としては被害者を姦淫するに至る何らかの動機付けが妄想に関連して形成されていた可能性を排斥することはできないと考えるべきである。
    また,事件時及びその後の被告人の行動の観点から検討しても,被告人の見当識や思考力が保たれていたことを推認することは難しい。既に述べたとおり,事件当時の被告人の行動には際立った奇異性があり,平素の被告人の人格傾向からみても乖離があることに加えて,C医師や警察官に事情を聞かれた際,被告人は,「夢の中」で行った行為と説明していたことを併せて考慮すると,被告人の意識状態は,現場で看護師に声を掛けられるまでは,あたかも夢を見ている状況に類似又は近似する状態にあり,そのことが事件時の行動に直接の影響を与えた可能性も否定できないところである(なお,E医師は,夢の内容を反映した寝言を言うことと,夢遊症状とは連続的であると述べる。)。そうすると,被告人が重要な事実を誤認,曲解し,見当識を完全に失った状態で事件に至った可能性を排斥できず,少なくとも,そのような可能性を否定するだけの立証が検察官により行われたとはいえない。
    このように,本件では,被告人の意識状態については証拠によって確定できない点が多く残り,被告人がいかなる事実を認識し,姦淫行為に及ぼうとしたのかも不明というほかないことから,刑事裁判における判断としては,合理的に想定可能な事態のうち,Xの副作用としての奇異反応が最も強度かつ直接的な影響を与えた場合を念頭に置いて検討すべきこととなる。このような観点からすると,前記のとおり,被告人が事件当時重要な事実を誤認,曲解し,見当識を完全に失った状態にあった可能性が否定できず,したがって,心神喪失の状態で事件に及んだ可能性が合理的に排斥できないというべきである。
  (2) 検察官は,被告人がXを以前から常用していたため,一定の耐性があったと考えられること,鑑定入院中も副作用としての奇異反応が確認されなかったことなどを根拠に,事件当時の被告人のXの血中濃度は薬物動態に関する一般的なデータに比べて低かったはずであると主張するが,証拠や医学的知見に基づかない独自の見解というほかなく,採用の余地はない。
    また,検察官は,看護師に声を掛けられた後の被告人の反応や言動は,状況に照らして極めて自然であり,見当識を保ったものであったと指摘し,被告人が短時間のうちに覚醒に至っていることもXの影響が強くなかったことを示す旨主張するが,そもそも看護師に対して行った被告人の言動について,これを自然で見当識を保っていたと評価することには疑問があるし,被告人がその直後にいびきをかいて眠っていることや,後にその部分も含めて健忘が生じていることなどからすると,看護師に声を掛けられて被告人の意識状態が直ちに正常に戻ったと認めるのは困難であり(E医師も正常な意識レベルにあったとみることに疑問の余地を指摘している。),この点の検察官の理由付けも採用できない。
    さらに,検察官は,被告人は,事件直前に,被害者のベッドによじ上り,着衣を脱がせるなどしているところ,そのような動作にはかなり高い意識レベルが必要であるから,Xの副作用の影響は限定的であったはずであるとする。しかし,先に述べたとおり,被告人の意識状態については,部分的には現実を正しく認識してそれに対応する行動を取りながらも,別の部分では妄想様の誤認,曲解が生じていた可能性が否定できないのであるから,一部の行動が現実に対応するものであったとしても,それだけで意識状態が正常に近かったはずであるとはいえない。したがって,検察官の前記指摘も採用できない。
    前記2点とも関連するが,事件の全体像について,検察官は,本件は心神喪失状態の被害者を狙った計画的犯行であるとの見立てを示し,看護師等に対する被告人の弁解も苦し紛れの言い逃れであって,事件前後の被告人の行動や動機に了解不能な点はないとも主張する。しかし,仮に本件が計画的犯行であり,被告人は被害者が最重度の認知症のために心神喪失状態にあることを十分知っていたのであれば,被害者から服を脱がすよう頼まれたとの弁解が通用しないことは明らかである。にもかかわらず,被告人は,現場を目撃した看護師に対してだけでなく,医師や警察官に対してもそのような大胆な嘘を突き通したということになるが,にわかに考えにくい経緯である。事件直後に被告人がいびきをかいて眠っていたこと,事件後,広範な健忘を残したなどの事情も計画的犯行であることと整合せず,こうした点に照らすと,本件を計画的犯行と見ることで全て了解可能とする検察官の見立てにはやはり無理があるといわざるを得ない。
 5 結論
   以上のとおり,事件当時,被告人が心神喪失状態にあった可能性が合理的に排斥できない。よって,刑事訴訟法336条により被告人に無罪を言い渡すこととする。
(求刑 懲役3年)
  平成25年11月26日
    神戸地方裁判所第4刑事部
        裁判長裁判官  丸田 顕
           裁判官  片田真志
           裁判官  高島 剛