児童ポルノ・児童買春・児童福祉法・監護者わいせつ・不同意わいせつ・強制わいせつ・青少年条例・不正アクセス禁止法・わいせつ電磁的記録弁護人 奥村徹弁護士の見解(弁護士直通050-5861-8888 sodanokumurabengoshi@gmail.com)

性犯罪・福祉犯(監護者わいせつ罪・強制わいせつ罪・児童ポルノ・児童買春・青少年条例・児童福祉法)の被疑者(犯人側)の弁護を担当しています。専門家向けの情報を発信しています。

「Santa Fe」問題

 ネタとしてはおもしろいですが、児童ポルノで摘発されることはないと思います。単純所持罪を作ったとしても、与党案では3号ポルノ定義は変えないわけですから。

 年齢についていえば、宮沢りえや関係者が黙秘すれば、タナー分類で年齢推定することになるから、児童ポルノとはいえなくなります。
 そうなると、入出国の記録で時期を特定するんでしょうね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090629-00000005-jct-soci
児童ポルノの単純所持が禁止されたら、17歳で撮影ともされる宮沢りえさんのヘアヌード写真集も廃棄すべきなのか。こんな話が議論され、話題になっている。子どもの被害をなくそうと法案の審議は進んでいるものの、基準が分かりにくいとの不満があるようだ。
■与党側「分からないなら、やはり廃棄すべき」

 この京都地裁H12.7.17があって、別件の大阪高裁H14.9.12がこれを追認しているし、これまで摘発されてませんから、芸術性があって、児童ポルノに該当しないと思います。

京都地方裁判所判決平成12年7月17日
判例タイムズ1064号249頁
岩井宜子・ジュリ別冊 179号122頁(メディア判例百選)
(争点に関する判断)
 一 弁護人は、判示一の事実(販売)に係る写真集一冊及び判示二の事実(販売目的所持)に係る写真集七冊並びにビデオテープ二巻(ほぼ同一内容であり、VHS方式のものとベータ方式のものとが、それぞれ一巻ずつある。なお、当初は他のビデオテープについても同様の主張をしていたが、第五回公判期日における被告人質問及び弁論によると、この主張は撤回したと認められる。)について、児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律(以下「児童ポルノ法」という。)二条三項三号に規定する児童ポルノに該当しない旨主張し、被告人もこれに沿う供述をしている。そこで、これらの写真集及びビデオテープが児童ポルノに該当すると認定した理由を説明する。
 二 児童ポルノ法二条三項三号の解釈
 児童ポルノ法二条三項三号にいう児童ポルノ(以下「三号児童ポルノ」という。)とは、写真、ビデオテープその他の物であって、①衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって②性欲を興奮させ又は刺激するものを③視覚により認識することができる方法により描写したものに該当するものである(数字は条文にはないが便宜上付け加えた)。本件では、①、③は客観的に判断することができることから、特に②の「性欲を興奮させ又は刺激するもの」の意味内容が問題となる。
 そもそも児童ポルノの販売等が禁止され、さらに、これらの目的での児童ポルノの製造、所持等が禁止されているのは、これらの行為による児童に対する性的搾取及び性的虐待が、児童ポルノの対象となった児童の心身に有害な影響を与え続け、児童の権利を著しく侵害するからに他ならない(児童ポルノ法一条参照)。
 このように、児童の権利を保護することの重要性にかんがみて、児童ポルノ法は、刑法におけるわいせつの定義、すなわち、「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」という最高裁判所判例最高裁昭和三二年三月一三日大法廷判決参照)によって確立されている定義とは異なった観点から児童ポルノの範囲を定め、性欲を興奮又は刺激せしめる点は必要であるが、しかし、「徒に」興奮又は刺激しなくても処罰の対象とし(この点で刑法よりも規制対象を拡大しているといえる。)、また、禁止される行為の範囲も業としての貸与、頒布等の目的での製造等にまで広げ、国内外を問わず処罰することとしたのである(同七条参照)。
 そうだとすると、問題となっている写真、ビデオテープ等が、ことさらに扇情的な表現方法であったり、過度に性的感情を刺激するような内容のものである場合などに限るなど、特別な限定をしなくても、性欲を興奮させ又は刺激するものと認められる以上は、三号児童ポルノに該当すると解すべきである。弁護人は、「性欲を興奮させ又は刺激する」との規定の意味を、児童のポーズが意味もなく局部を強調するものであったり、構図などから男女の性交を暗喩していると認められるような場合に限定すべきであると主張するが、そのように限定して解釈すべき理由はない。
 三 判断の方法
 そして、性欲を興奮させ又は刺激するものであるか否かの判断は、児童の姿態に過敏に性的に反応する者を基準として判断したのではあまりにも処罰範囲が拡大してしまうことから、前記のとおり、児童ポルノの定義から最高裁判所判例の掲げる「普通人の正常な性的羞恥心を害し」という要件が割愛されているとしても、法の一般原則からして、その名宛人としての「普通人」又は「一般人」を基準として判断するのが相当である。
 もっとも、三号児童ポルノの範囲が拡大すると、表現の自由や学問の自由等の憲法上の権利を制約することになりかねないという懸念もあろう。児童ポルノ法三条も、この法律の適用に当たっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならないと定めているところである。
 そこで、衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態(以下「児童の裸体等」という。)を描写した写真または映像に児童ポルノ法二条二項にいう「性器等」、すなわち、性器、肛門、乳首が描写されているか否か、児童の裸体等の描写が当該写真またはビデオテープ等の全体に占める割合(時間や枚数)等の客観的要素に加え、児童の裸体等の描写叙述方法(具体的には、①性器等の描写について、これらを大きく描写したり、長時間描写しているか、②着衣の一部をめくって性器等を描写するなどして性器等を強調していないか、③児童のとっているポーズや動作等に扇情的な要素がないか、④児童の発育過程を記録するために海水浴や水浴びの様子などを写真やホームビデオに収録する場合のように、児童の裸体等を撮影または録画する必然性ないし合理性があるか等)をも検討し、性欲を興奮させ又は刺激するものであるかどうかを一般通常人を基準として判断すべきである。そして、当該写真又はビデオテープ等全体から見て、ストーリー性や学術性、芸術性などを有するか、そのストーリー展開上や学術的、芸術的表現上などから児童の裸体等を描写する必要性や合理性が認められるかなどを考慮して、性的刺激が相当程度緩和されている場合には、性欲を興奮させ又は刺激するものと認められないことがあるというべきである。
 四 各写真集等についての認定
  1 「Bel Ange(ベル・アージュ)可憐な天使写真集」
 ヨーロッパ風の建物内で、ヨーロッパ系と思われる少女(六歳、八歳程度)を写した写真集である。
 全八〇頁(表紙を除く。以下同じ)中、全裸写真が約二〇頁を占める上、その他も下着姿(パンツのみを着用した写真や下着をはだけて胸部を見せているような写真もある。)などである。特に扇情的なポーズをとった写真や性器を強調するような写真はなく、性器にはぼかしが入っているものの、着衣の一部をことさらにめくって肌を露出した写真や臀部や胸部を大きく写した写真がある。また、衣服を着用するのが通常である居室などにおいて少女の裸体を撮影し、ベッドの上でことさらに下着の一部を着けていない姿を撮影しているが、このような写真を撮影する必然性ないし合理性も認められず、性欲を興奮又は刺激するのに十分な内容である。
 写真集全体の構成を見ても、前記のとおりヌード写真ばかりであり、さらに、表紙には「ユーロ美少女たちの青くみずみずしいプライベートヌード」とうたって、ヌード写真であることを売りにしているものであって、芸術性等が性的刺激を緩和するとは認められない。
  2 「美少女ヌード写真集 おともだち 理恵と亜由香」
 六から八歳の少女と他一名の少女の写真集である。
 全六四頁中、裸体等の写真が約二七頁を占めている上、その他も上半身が体操着で、下半身に下着だけを着用していたり、スクール水着をめくって、胸部を見せたり、体を布にくるんで、裸体を想像させるような写真である。そして、少女があえぐような表情をしたり、性器自体はぼかしているものの、足を開かせて性器が写真に収まるようなポーズをとらせており、扇情的な表現が認められる。性欲を興奮又は刺激するに十分な内容である。
 なお、右のように扇情的な表現を用いていること、表紙に「美少女ヌード写真集」と記載して、ヌードを売りにしていることからすると、特に性的刺激を緩和する表現は認められない。
  3 「ロリコンハウス6月号通巻第7号」
 グラビア、漫画、文章による記事からなる雑誌であり、グラビアに、六から八歳の少女が入浴している写真と四から七歳の少女の全裸写真がある。
 全一七八頁中、乳首等を撮すなどした裸体等の写真が約二一頁を占める。全体に占める裸体等の写真の比率は比較的少ないが、枚数自体は多い。裸体等の写真部分のみがカラー頁となっており、雑誌の冒頭に掲載するなど、当該雑誌の中心を占めるといってよい。また、風呂内でポーズをとっていたり、エプロンのみを着けた少女が喫茶店の店員として登場する場面があるが、そのような演出をする必然性はなく、扇情的効果のある表現と認められ、性欲を興奮又は刺激するに十分な内容である。
 また、写真にせりふをつけて漫画形式にした読み物があるが、ストーリーの展開上、少女に着替えをさせて少女の裸体等を見せる必要は認められない。なお、当該雑誌の他の記事は、少女との性交、性交類似行為に関する記事、少女を誘う方法を教示する記事などであり、表紙に「世界一のロリコン専門誌」と記載して、ロリコン趣味の人の興味を引くような体裁であって、澁澤龍彦の少女に関する文学作品を紹介する記事があるが、ごく一部に過ぎず、性的刺激を緩和するに至っていない。
  4 「ロリコンハウス6月号通巻第13号」
 3と同様の雑誌であり、一〇から一四歳の少女が着衣の一部を脱いだ写真と一四から一八歳の少女が入浴している場面の写真グラビアがある。
 全一七八頁中、乳首や臀部が映った裸体等の写真は約二一頁を占める。全体に占める裸体等の写真の比率は比較的少ないが、枚数自体は少なくない。
 裸体等の写真部分のみがカラー頁となっており、雑誌の冒頭に掲載するなど、当該雑誌の中心を占めるといってよい。表現方法を見ても、ことさらに乳首が見えるように着衣をめくったり、臀部を強調するような写真があり、演出も、裸体に泡をつけたり、シャワーを使ったりする必然性がなく、ガラスに向かってキスをするなど扇情的な部分がある。性欲を興奮又は刺激するに十分である。
 なお、当該雑誌の他の記事は、少女との性交に関する記事、少女との性交場面がある漫画等であり、表紙に「世界一のロリコン専門誌」と記載して、ロリコン趣味の人の興味を引くような体裁であって、エドガー・アラン・ポーと少女の関係についての文学評論等があるが、ごく一部に過ぎず、性的刺激を緩和するに至っていない。
  5 「MAGIC BEAUTYくりぃむれもん」
 四から七歳の少女の写真集である。
 全三八頁中(ただし、切り取って使用する部分を除く。)、全裸写真が約九頁あり、その他もヌード写真ばかりである。
 性器部分は黒く塗潰されており、着衣をまとっている写真もあるが、着衣は透けて見える生地を使っている。少女がアイシャドーや口紅を濃く塗って化粧をして、ワイングラスを持っているなどの演出をしているが、前記のとおり、全裸写真などが写真集の中心を占めていることに照らせば、成人女性をカリカチュアするなどの特段の意味のある表現とはいえず、扇情的効果を狙っているものと認められる。また、着衣の一部を脱いで性器や乳首を覗かせたり、少女が流し目をしたり、臀部を強調するような写真があり、中には性器が見えるように股を若干開いたポーズをとったものもある。表現方法は明らかに扇情的であって、性欲を興奮又は刺激するに十分な内容である。
 表紙に、全裸の少女の写真を掲載した上、ロリータ写真集と記載して、ロリコン趣味の人の興味を引くような体裁であって、特に性的刺激を緩和する表現は認められない。
  6 「NEW FACE」
 二から六歳の少女の写真集である。
 全五六頁中、約三七頁以上が全裸である。その他も、透けて見える生地を体にまとったようなヌード写真に準ずるものである。陰部は黒く塗潰してあるものの、乳首等は写っている。
 また、股を開いて性器が見えるようなポーズをとったり、体の線を示すように上体を反らせたり、臀部を強調するように腰をひねったような写真がある。バドミントンのラケットを持っている写真があるが、全裸でラケットを持っている姿を写真に撮る必然性は認められない。描写方法も性的関心を引くようなものと認められ、性欲を興奮又は刺激するに十分な内容である。
 なお、随所にゲーテリルケ等の詩を引用しており、一部に写真の内容に沿う詩も引用されているが、写真との関連性は薄く、こじつけといえるもので、表現の主要部分は前記写真であることが明らかである。また、表紙に、全裸の少女の写真を掲載した上、「ロリータ写真集」と記載して、ロリコン趣味の人の興味を引くような体裁であって、特に性的刺激を緩和するような表現は見あたらない。
  7 「少女の夢。」
 ヨーロッパ風の田園風景や邸宅内等で、六から八歳、七から一〇歳、一〇から一二歳等のヨーロッパ系と思われる少女を撮影した写真集である。
 全一一二頁中、約七五頁が全裸写真であり、性器が写っていたり、乳首が写っているものが多い。全裸でなくとも、下半身が裸であったり、着替えをする場面など裸体等の写真がほとんどを占める。
 性交を暗示させるような扇情的なポーズをことさらにとらせた写真は見当たらないものの、田園風景のもとで裸体等になったり、邸宅内の台所や応接室、ピアノや絵画の前などで通常裸体等になる必然性は認められない。さらに、着衣の一部をめくる姿など性器等が見えるような構図が多い上、逆立ちをしたり、股を若干開くなどして、ことさらに性器が見えるようにしたポーズや、真下から脚部と性器のみが見えるように撮影している場面があり、性欲を興奮又は刺激するに十分である。
 なお、各少女について説明文がついているが、特別に意味があるようなものでなく、また、表紙に全裸の写真を掲載し、ヌード写真集であることが一見して分かる体裁であり、性的刺激を緩和する表現は特に認められない。
  8 「純少女」
 前記「MAGIC BEAUTYくりぃむれもん」とほぼ同一内容の写真集である。
 全四八頁中、約一五頁が全裸であり、全裸でない写真でも性器が写っている写真が多い。性器をぼかしたりせず、そのまま掲載されている写真すらあり、「MAGIC BEAUTYくりぃむれもん」よりも性欲を興奮又は刺激するに十分な内容である。
 そして、表紙に、全裸の少女の写真を掲載した上、美少女ロリータ写真集と記載して、ロリコン趣味の人の興味を引くような体裁であって、性的刺激を緩和するような表現は特に認められない。
  9 「のぞき屋1・2・3・4」
 五から七歳と六から八歳の東南アジア系と思われる少女が、全裸でフリスビーをする場面等が撮影されているビデオである。
 フリスビー場面は約一〇分間と比較的長く、児童の乳首や性器が映っている場面がある。児童には特に演技をさせている様子は認められないが、少女が自発的に全裸でフリスビーをするとは到底考えられない。臀部をアップにした場面があり、アップでなく、また短時間ではあるが、性器が見える場面が何度も登場し、フリスビー自体の動きとは関係なく、胸部や臀部を撮影し、ときには臀部や陰部が見えるように下方から撮影したり(なお、性器をモザイクでぼかしたりしていない。)、なかには、一分以上にわたって臀部や脚部を撮している場面があり、表現方法に性器等を強調する傾向が窺える。性欲を興奮又は刺激する内容といえる。
 全裸でフリスビーをする表現上の必然性は認められない上に、同場面の前後には、児童の着替え、水浴び、滑り台で遊ぶ少女の下着などを盗み撮りした場面が脈絡なく延々と続いており、児童の健全な発育を記録するようなものとは到底認め難く、性的刺激を緩和するような表現は全く認められない。
 五 故意について
  1 被告人は、右四の1ないし9の写真集等を個人の観賞用として入手し、その内容を熟知していたものであって、故意に必要な認識があるのは明らかである。
  2 もっとも、被告人は、捜査段階から右写真集等の一部について児童ポルノに該当しないと判断していた旨供述し、公判廷でも同様の供述をしている上、専ら写真集についてのみ広告を出していたことなど、写真集は適法であると信じていたことに沿う事実もある。
 しかし、被告人自身が児童ポルノ法の施行前に警察庁のホームページで同法の内容を調べ、同法の規制内容を知っていたこと、被告人は美少女写真集を売りますという広告をパソコン通信に掲示していたが、パソコン通信の管理者からこれを削除され、警告を受けていたこと、同広告中には被告人自身も児童ポルノと認めているものが含まれていること、被告人が問い合わせを受けた際などに送る商品リストには、「のぞき屋1・2・3・4」について、以前は市販されていたが平成一一年一一月以降は販売していない旨の注記があり、被告人自身も児童ポルノ法施行後は市販されていないことを知っていたと認められること、写真集等の中には販売価格が三万円、五万円とかなり高額のものが含まれていたこと、さらに、捜査段階において、右写真集の一部について、自ら性的な刺激を受けるし、もしかしたら児童ポルノに該当するかも知れないと思っていた旨供述していることなどからすると、右誤信に相当な理由は認められない。
 なお、被告人は、児童ポルノ法施行後に、テレビのコマーシャルの中に半裸の少女が出ていたこと、テレビの番組の中で外国人の少女が全裸で動いている姿が放映されたことから、右写真集等も児童ポルノに該当しないと考えた旨供述する。しかし、公序良俗に反するような放送は放送法三条の二第一項一号で禁止され、そのための厳格な内部基準(コード)があるのが通常である上、テレビのコマーシャル番組では、児童の裸体等が写る時間が短く、性器等を強調する表現もないのが通常であって、さらに、宣伝や娯楽のために、演出に工夫が凝らされている場合が多いので、児童ポルノには該当しないのが通例である。したがって、右写真集等のように児童の裸体等ばかりを集めたものとは、格段に性的刺激の程度が違うのであるから、これも相当な理由となるものでない。
  3 よって、故意も認められる。

阪高裁平成14年9月12日判決
第5 控訴趣意中,事実誤認の主張について
論旨は,・・・(2)本件各写真集はいずれも芸術作品であり,児童ポルノに当たらない・・・というのである。
そこで,記録を調査して検討するに,・・・(2)の点についても,所論は,芸術性が児童ポルノ該当性に与える影響について,個々の写真ごとに検討すべきであるとの前提に立った上,本件各写真集は,いずれも,①表現方法に性器等を強調する傾向がない,②性欲を興奮又は刺激する内容がない,③児童のポーズに扇情的な要素がない,④児童の純真さを表現するという撮影者の意図が明らかである,⑤装丁も芸術作品に相応しいものであるから,児童ポルノに当たらないと主張する。
しかしながら,芸術性が児童ポルノ該当性に与える影響については,本件各写真集をそれぞれ全体的に見て検討すべきである上,本件各写真集は,いずれも,全裸あるいは半裸姿の児童が乳房,陰部等を露出している写真が相当部分を占めており,上記①②及び④は妥当しないし,また,そのため,仮に,上記③及び⑤が妥当するとしても,本件各写真集が児童ポルノに当たらないとはいえない。したがって,所論は採用できない。

 出版社も「Santa Fe」はこういう写真集はないと、胸を張って主張すべきですね。



追記
 保坂展人議員が会議録を公開されました。
 公刊されているのが京都地裁H12.7.17だけなので、それでやってるんですね。大阪高裁H14.9.12は公刊されてないので、中央の人には届かない。
 京都地裁H12.7.17のおかしいところは、「芸術性」による犯罪阻却を、性欲刺激の要件のみの解釈にしているところです。この事件は控訴されてない。

 大阪高裁H14.9.12の「性欲を興奮させ又は刺激するものと感じる者が多数いると考えられれば,それで足りる」によれば、芸術作品でも「性欲を興奮させ又は刺激するものと感じる者が多数いる」ことになると児童ポルノ性を備えることになることになって、京都地裁H12.7.17の手法がそのまま追認されたわけではないです。
 高裁レベルでは「芸術的・思想的価値のある文書でも、わいせつ性があると評価しうる。(最判昭44・10・15刑集23-10-1239)」という判例をよく知っているので、「芸術的・思想的価値のある文書でも、性欲を興奮させ又は刺激するものと評価しうる。」と考えているのだと思います。

http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/abe89c2a651485ac6b478a801dc533de
○富田議員 保坂先生の言わんとしているところはよくわかるんですが。先ほど三号ポルノに該当するかどうかというところは、京都地裁の判決でかなり詳細に認定していますので、多分、その京都地裁の判決の基準に当てはめると、保坂先生言われる芸術性の部分で、性欲を刺激しない、相当程度そこが落ちてくるんだという、三号ポルノ自体から外れてくるんじゃないか。そういう場合には、やはりそれを持っていたからといって廃棄しろというふうにはならないと思うんですね。


 最判S44によれば、芸術でもわいせつ物となる可能性があるが、販売以外の目的であれば所持できるから、芸術が抹殺されることはないというのです。
 この理由付けだど、単純所持罪は所持を許さないのだから、芸術かつ児童ポルノであるものは抹殺されることになりますね。

最高裁判所大法廷判決昭和44年10月15日
      最高裁判所刑事判例集23巻10号1239頁
      最高裁判所裁判集刑事173号293頁
      裁判所時報532号1頁
      判例タイムズ240号96頁
      判例時報569号3頁
      警察研究43巻2号100頁
      警察時報25巻1号83頁
      ジュリスト臨時増刊456号18頁
      別冊ジュリスト27号174頁
      別冊ジュリスト31号34頁
      別冊ジュリスト32号228頁
      別冊ジュリスト44号46頁
      別冊ジュリスト51号238頁
      別冊ジュリスト68号58頁
      別冊ジュリスト74号224頁
      別冊ジュリスト85号32頁
      別冊ジュリスト89号244頁
      別冊ジュリスト95号86頁
      別冊ジュリスト119号208頁
      時の法令398号52頁
      時の法令699号51頁
      判例タイムズ242号10頁
      法学研究(慶応大)45巻7号87頁
      法学研究(慶応大)45巻7号122頁
      法曹時報22巻5号159頁
      法律のひろば22巻12号12頁
      法律のひろば23巻2号24頁

 (二)刑法一七五条は、文書などを猥褻性の面から規制しようとするもので、その芸術的・思想的価値自体を問題にするものではない。けだし、芸術的・思想的価値のある文書は、猥褻性をもつていても、右法条の適用外にあるとの見解に立てば、文書の芸術的・思想的価値を判定する必要があるであろうが、当裁判所がそのような見解に立つものでないことは右(一)において説示したとおりであるからである。原判決が、「現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつて、この場合、裁判所の権能と職務は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。」と判示したのは、措辞に妥当を欠く点がないではないが、要は、裁判所は、右法条の趣旨とするところにしたがつて、文書の猥褻性の有無を判断する職責をもつが、その芸術的・思想的価値の有無それ自体を判断する職責をもつものではないとしたのであつて、なんら不当なものということはできない。
 (三)以上のような考え方によると、芸術的・思想的価値のある文書でも、猥褻の文書として処罰の対象とされることになり、間接的にではあるが芸術や思想の発展が抑制されることになるので、猥褻性の有無の判断にあたつては、慎重な配慮がなされなければならないことはいうまでもないことである。
しかし、刑法は、その一七五条に規定された頒布、販売、公然陳列および販売の目的をもつてする所持の行為を処罰するだけであるから、ある文書について猥褻性が認められたからといつて、ただちに、それが社会から抹殺され、無意味に帰するということはない。